信じるもの

私の旅した土地ではいつも宗教があって、人々は信じるモノの前に出向き見えない何かと一つになるように手を合わせ頭をさげていた。
アジアでもインドネシアやインドのムスリムやクリスチャンなど多宗教であるけれどやはり大部分は仏教である。
ベトナムからミャンマーあたりまでの東南アジアは以前は小乗仏教と呼ばれていた上座仏教、ブータンやチベット圏はチベット仏教(密教)、これは日本と同じ大乗仏教。

旅行中、気づけばいつもお寺に足が向いていた、時にはヒンドゥー寺院に入ることもあったけど(信者しか入ってはいけなかったかもしれないが)、安心して堂々と入れるのは仏教のお寺だった。
お寺、といっても茶色で統一され落ち着いた日本のお寺に比べ、色彩にあふれ華やかさに富んでいるのがアジアの寺院。
どの国もみんな敬虔な信者で、それは日本が胸の前で合掌するのに比べてアジアではもっと身体を使って敬意を表している。

分かりやすい例がチベットの五体投地。
自分達の持てる全てを捧げるようなあの姿をはじめて見る者は何も思わないわけにはいかなくなる。
苦しい時の神頼み、という言葉があるように、置かれた立場が厳しければ厳しいほど人々の信仰心は篤くなる。

私達日本人も仏教でれアニミズムであれ、貧しい畑を耕し一家みんなが健康に暮らせるよう祈るという行為が欠かせなかった時代がかつて、ほんの少し前まであったのではないか。

宗教が中心にある私の見てきた人たちは、日課のように家族や友達とお寺へ行き道徳や生きる上で大事なことを学び行事に参加し遊ぶ。
みんなで一緒に同じ方向を向いている安心感もある。信仰に数字も競争もないから誰も険しい顔をしていない。

スリランカの古都、キャンディというお気に入りの町に滞在していた時。
日本の京都のような存在であって、ブッダの歯が安置されているという仏歯寺に行くとお釈迦様の物語の絵巻物がある大広間で、お父さんが小学生くらいの娘に指を差しながら何やら教えている。
スリランカでは日曜になるとこうして家族でお寺に来て仏教についての教えを親が子に教えてあげるのだ、と確かこのお父さんが言っていた。

あぁいい姿だな、と思う。
それに比べて日本は、と考えざる負えなくなる。
たとえば宗教でないとしても、こうして親から何か精神的に大事なことを学んだ子は大人になってもその教えが染み渡っているだろう。

島根県の出雲出身の友達は、小さい頃から神話を聞いて育ったため、神という存在と当たり前のように生きてきた、とこちらが思うような発言をすることがある。大人になってから、こういう旅を通して知りえた私には持てないものだと思う。
旅にでては、日本人は同じ仏教だからと親近感を持ってくれる人に出会い、帰国したと思えば、日本は無宗教でしょうと言う同世代に囲まれる。この狭間で自分は一体何を信じているのか自問自答しながら日常に戻るのであった。